023. 写真と版画の融合:現代美術における写真製版の美学(第4部:チャック・クロースとグリッド)
アメリカの芸術家チャック・クロース(1940–2021)は、写真の忠実性とグリッド・システム(格子構造)の厳密な構造とを融合させることで、肖像画の捉え方を根底から変革しました。キャリアの初期に、クロースは友人や家族の近接写真をもとに、記念碑的で超リアルな肖像画の制作を開始しました。しかし、写真の複製を単に描くのではなく、クロースは元写真を何千もの小さく均一な正方形(マス目)に分割しました。このグリッドにより、彼は複雑な視覚情報を、色彩、明暗(トーン)、質感の漸進的で扱いやすい単位へと置き換えることができたのです。
この体系的なアプローチが最も厳密にテストされたのは、彼の広範な版画(エディション)制作においてでした。クロースは伝統的なメゾチントやフォトグラヴュールから多色刷り木版画、フォト・シルクスクリーンに至るまで、主要なほぼすべての版画メディアを取り入れました。画期的なフォトグラヴュール作品において、クロースは光感光性の化学反応を用いて、グリッド状の写真ネガを銅版へと直接エッチング(腐蝕)しました。間近で見ると、グリッド内の個々の正方形は、自律したミニアチュール(極小)の抽象的な痕跡として機能します。しかし、鑑賞者が後ろへ下がると、これらの何千ものバラバラな痕跡が人間の目の中で途切れなく統合され、驚くほど一貫した生命感あふれる人間の顔を形作るのです。
チャック・クローズ:初版作品
動画 「Chuck Close: First Print Work」(モントレー美術館/約8分21秒)は、アメリカの現代美術家チャック・クロース(Chuck Close)が版画制作に取り組み始めた初期のプロセスや、作品制作に対する哲学・技法について学芸員(解説者)が展示室で語っています。内容は、下記【補足解説をご覧ください。
相貌失認(顔認識の障害)を患っていたクロースにとって、グリッドに基づく写真製版プロセスは、複雑な顔の位相(トポロジー)を解体し、記憶し、理解するための不可欠な知的ツールでした。ハイコントラストな写真を写真エッチングや凸版印刷の膨大な機械的工程にくぐらせることで、クロースは写真画像が現実への途切れのない窓などではなく、視覚データの注意深く構築されたモザイクであることを明らかにしました。そうすることで、彼はフォトリアリズムを、人間の視覚、知覚、そして構造的抽象に関する深い探求へと昇華させたのです。
🔑 Key Vocabulary & Concepts
- Grid System(グリッド・システム / 格子構造)
- 元画像を正方形のマス目に分割し、全体像を小さな情報単位に分解して再構成する技法。クロースの代名詞的な表現構造。
- Disparate marks seamlessly synthesize in the eye(バラバラな痕跡が目の中で途切れなく統合される)
- 近くで見ると独立した抽象的なマス目の集まり(ドット)に過ぎないものが、距離を置くことで人間の網網膜上で「一本の線」や「立体的な顔」として像を結ぶ光学的な視覚効果。
- Prosopagnosia / Face Blindness(相貌失認)
- 人の顔を脳で認識・記憶することが困難な脳機能の条件。クロースは写真をグリッドで極小単位に分解し、一つひとつのマス目を解析することで顔の構造を理解・記憶しようとしました。
- Constructed mosaic of visual data(視覚データの構築されたモザイク)
- 写真を「世界をそのまま映す鏡」ではなく、明暗や色彩のドット(データ)が組み合わされてできた「ひとつの構造物(モザイク)」として捉え直す概念。
❓ Comprehension Quiz & Answers
- Q1: What purpose did the grid system serve in Chuck Close’s artistic process?
- 正解: B) It allowed him to divide complex source photographs into tiny, manageable units of visual data.
- 解説: 第1段落の “divided his source photos into thousands of tiny, uniform squares. This grid allowed him to translate complex visual information into incremental, manageable units…”(複雑な視覚情報を扱いやすい極小の単位へ分割した)から読み取れます。
- Q2: How do individual squares within the grid function when viewed up close versus from a distance?
- 正解: A) Up close they look like miniature abstract marks, but from afar they synthesize into a coherent, lifelike face.
- 解説: 第2段落の “Up close, each individual square within the grid functions as an autonomous, miniature abstract mark. Yet, as the viewer steps back, these thousands of disparate marks seamlessly synthesize in the eye to form a startlingly coherent, lifelike human face.” から読み取れます。
- Q3: According to the article, what did Close’s gridded photo-process reveal about photographic images?
- 正解: C) That a photograph is not a seamless window into reality, but a constructed mosaic of visual data.
- 解説: 第3段落の “revealed that a photographic image is not a seamless window into reality, but a carefully constructed mosaic of visual data.”(写真は現実への窓ではなく、視覚データの構築されたモザイクである)から読み取れます。
【補足解説】
チャック・クロースのメゾチント制作については、下記のWEBサイトで当時の制作の様子が写真付きで紹介されています。
版画工房での職人とのコラボの様子やクロースのアトリエでの大きなサイズの銅版を立てかけてバーニッシュで描画している様子が記録されています。是非ご参考ください。
https://www.phillips.com/article/63946791/chuck-close-printmaking-editions-auction
メゾチント技法(Mezzotint)とクロースの革新
メゾチントは17世紀にヨーロッパで開発された銅板画の版画技法(凹版画)の一種で、「黒(闇)から白(光)を描き出す」という独特の反転アプローチが最大の特徴です。
メゾチントの基本的仕組み
目立て(Rocking / ベルベットのような黒): 「ロッカー(Rocker)」というギザギザの刃を持つ特殊な工具を使って、平滑な銅板表面全体に無数の微細な傷(バリ/Burr)を全方向から刻み込みます。この状態でインクを塗って刷ると、光を一切反射しない「漆黒(深く濃密な黒)」が刷り上がります。
削りと磨き(Scraping & Burnishing / 光の抽出): 真っ黒な版の上に、スクレーパー(削り器)やバーニッシャー(磨き工具)を使い、バリを平らに削ったり押し潰したりします。
大きく削る: インクが載らなくなり、紙の白(ハイライト)が出る。
軽く削る: 中間トーン(ハーフ トーン)が生まれる。
チャック・クロースにおけるメゾチントの特徴
歴史的スケールへの挑戦(大判化)
伝統的なメゾチントは、銅板の「目立て(ロッカーがけ)」に途方もない労力と時間を要するため、手鏡サイズやカードサイズの小品で作られるのが一般的でした。
動画(モントレー美術館の解説)でも触れられている通り、1972年の名作『Keith / Mezzotint』において、クロースは「版画史上、かつて試みられたことのない巨大なスケール」(約114 × 89 cm)でメゾチントを制作しました。
グリッドとメゾチントの融合
クロースはメゾチントの版面上にもグリッドを応用しました。1マスごとにバーニッシャーやスクレーパーの圧力を調整し、金属のバリの潰し具合を変えることで、写真の連続的なトーン(明暗グラデーション)を緻密なデジタル状の明暗階調へ置き換えました。
「目立ての摩耗」とプロセス自体の可視化
メゾチントの銅板に作られた細かなバリは非常に繊細で、プレス機の圧力で刷るたびに少しずつ摩耗してつぶれていきます(耐久性が非常に低い)。
クロースの『Keith / Mezzotint』では、制作途中で何度も「試刷り(プルーフ)」を重ねたため、中央部(鼻や口の付近)の銅板が磨耗してインクの載りが浅くなり、結果としてその部分が明るく褪せたような独特の質感が生まれました。クロースはこの「版の疲労と制作の痕跡」を欠陥とせず、時間の経過や制作プロセスの記録として作品の美学に取り入れました。
【ここがすごい!】
この作品の目立ては工房の創設者でありマスタープリンターのキャスリン・ブラウン(Kathan Brown)とチャック・クロース自身が共同で手作業で行いました。
1. 職人任せにしない「圧倒的な目立ての協働」
通常、現代美術家が工房で版画を制作する際、目立てのような過酷で定型的な下準備は職人(プリンター)やアシスタントに下請けさせることが一般的です。
しかし、幅約90cm × 高さ114cmという規格外の大判銅板に対して、クロースとキャスリン・ブラウンは数か月間にわたり手作業でロッカーを振り続け、銅板一面に均一なバリ(目)を刻み込みました。キャスリン・ブラウン自身も後年の回想で「あまりにも無謀で過酷な作業だった」と語るほどの手間がかけられています。
2. 写真製版(フォト・メゾチント)の不使用
当時、大判で均一な目立てを作る方法として「写真スクリーンやグラビア技法を用いた化学的・機械的な目立て」も技術的には可能でした。
しかし、クロースはそれを敢えて拒否し、「純粋な手技によるロッカーがけ」に固執しました。彼が求めたのは、単なる黒のグラデーションではなく、手作業の目立てによってのみ得られる「ベルベットのように深く重厚な黒(Velvety Black)」と、その黒から光を削り出していくという肉体的プロセスそのものだったからです。
3. この体験がクロースの以降の「グリッド芸術」を変えた
この作品で工房の職人と共に極限まで時間と労力を費やした経験は、クロースのその後のキャリア全体を決定づけることになります。
「隠すグリッド」から「見せるグリッド」へ それまでの油彩画では、グリッドは制作後に消し去る「下書きの枠組み」に過ぎませんでした。 しかし、このメゾチント制作において、途中の試刷り(プルーフ)の重ねすぎで中央部が擦り減り、「格子状のグリッド構造と試行錯誤の過程が図像の表面に浮かび上がってしまった」ことを見たクロースは、強い感銘を受けました。
彼は後にこう振り返っています。
「『Keith』を作り終えてから、私はマス目(ユニット)を隠すのではなく、むしろ可視化し、祝福するような作品を作り始めた。そのすべては、この版画を作ったことから始まったんだ。」
工房の職人と二人三脚で限界に挑み、版の摩耗という「偶発的な痕跡」すらも受け入れたことが、現代美術史に残る「グリッド・ポートレート」のスタイルを確立させる直接の引き金となりました。
*是非上記の動画で紹介されている、不完全な巨大サイズのメゾチント作品をご覧下さい。これがどれほど凄い事か、実際にメゾチント制作をしている私は、息を呑むほど感動しました。
メゾチント目立て作業は、川田祐子による下記動画(14:18くらいから)をご覧ください。

















