010. 版画の概念変革(第3部:ヘイターと20世紀のアトリエ——絵画を拡張する「実験室」へ)
20世紀に入ると、版画制作は個人のアトリエでの試みから、協働的で実験的なプロセスへと移行しました。この革命の中心にいたのが、1927年にパリで伝説的な工房「アトリエ17」を設立したイギリスの版画家であり化学者でもあるスタンリー・ウィリアム・ヘイターでした。ヘイターは版画工房を芸術をコピーするための工場ではなく、知性と技術による発見のための実験室として再定義しました。
アトリエ17は、パブロ・ピカソ、ホアン・ミロ、ルイーズ・ブルジョワ、ジャクソン・ポロックら前衛の巨匠たちを引きつける磁石となりました。ヘイターは芸術家たちに対し、事前の下描き(準備素描)を捨て、銅板と直接対峙するよう促しました。彼は金属表面の物理的な抵抗が無意識の創造性を引き出すと考え、版画制作をシュルレアリスムの「オートマティスム(自動記述)」と同調させたのです。ソフトグランド・エッチングやビスコシティ・プリンティング(粘性の異なるインクを用いて1枚の版から複数の色を同時に刷る手法)などの実験を通じて、芸術家たちはキャンバス上では達成不可能なテクスチャを発見していきました。
重要なことに、銅板の上でなされた発見は他の芸術メディアへとフィードバックされ始めました。例えば、アトリエ17での自動記述的な線の彫刻におけるポロックの経験は、彼の革新的なドリップ・ペインティング(滴下絵画)の手法に直接的な影響を与えました。
工房を共同の実験室に変革することによって、ヘイターと同時代の芸術家たちは、版画が単に完成したアイデアを記録するためのツールではなく、現代美術の未来を発明するための強力なエンジンであることを証明したのです。
🔑 Key Vocabulary & Concepts
- Atelier 17:アトリエ17(1927年にヘイターがパリで設立した現代版画工房。後にNYへ展開)
- Avant-garde:前衛的な、アヴァンギャルド(実験的・革新的な芸術運動)
- Viscosity printing:粘性印刷 / 一版多色摺り(インクの油分や固さの違いを利用し、1枚の版で一度に多色を刷る技法)
- Bleed into each other:互いに滲み出る、色移りする(without bleeding into each other = 互いに交じることなく)
- Abstract Expressionists:抽象表現主義者たち(ポロックなど、戦後アメリカの抽象絵画をリードした芸術家群)
❓ Comprehension Quiz & Answers
- Q1: What was Stanley William Hayter’s belief about copperplate printmaking?
- Answer: B) It was an independent method of direct artistic discovery, not just a reproduction tool.
- Note: 単なる既存絵画の複製手段ではなく、直接的な芸術的発見を行う独立した方法であると信じていた。
- Q2: What made “viscosity printing” such a revolutionary invention?
- Answer: A) It allowed multiple colors to be printed in a single pass using inks of different oiliness/thickness.
- Note: 異なる粘度のインクを使うことで、1枚の深彫り銅版から1回のプレスで複数色を鮮明に転写できた。
- Q3: What happened when Atelier 17 moved to New York during World War II?
- Answer: C) It influenced a new generation of American artists and Abstract Expressionists.
- Note: 戦時中にNYへ移動したことで、アメリカの抽象表現主義などの新世代アーティストに大きな影響を与えた。
【補足解説】
今回参考画像として挿入したポロックのシュールレアリズム時代の版画作品と、アトリエ17で制作されたヘイターの影響下の作品(006.記事を参照)と比較すると、作風の変化を楽しむことが出来ます。
ポロックはどういう経緯でヘイターのアトリエに行くようになったのでしょうか?
1. 「アトリエ17」のニューヨーク移転(1940年)
1927年にパリで設立されたアトリエ17ですが、第二次世界大戦の勃発に伴い、創者のスタンリー・ウィリアム・ヘイターは1940年に拠点(工房)をニューヨーク(ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ内)へと移転させました。
当時、ナチスの難迫を逃れてヨーロッパからパリのシュルレアリストたち(マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、イヴ・タンギーなど)が続々とニューヨークへ亡命していました。ヘイターの工房は、彼らヨーロッパのエグザイル(亡命者)芸術家たちと、ポロックをはじめとする若きアメリカのアヴァンギャルド芸術家たちが交差する「大西洋を越えた芸術的ハブ」となったのです。
2. ポロックがアトリエ17を訪れた経緯(1944〜1945年頃)
ポロックがアトリエ17に参加したのは1944年から1945年頃のことです。主なきっかけには以下の要素がありました。
- ペギー・グッゲンハイムのサロン(Art of This Century) 1942年、パトロンのペギー・グッゲンハイムがニューヨークに開いた画廊「アート・オブ・ディス・センチュリー」は、シュルレアリストと若手アメリカ画家の最大の交流場でした。ここでポロックはヘイター本人やヨーロッパのシュルレアリストたちと直接知り合い、彼らが熱心に通うヘイターの工房へと引き寄せられていきました。
- 無意識の探求(オートマティスム)への共感 ポロックはもともとユング心理学の精神分析を受けており、「無意識のイメージをいかに直接表現するか」に強い関心を持っていました。ヘイターが提唱する「下描きなしで、彫刻刀やニードルの物理的抵抗と格闘しながら無意識の線を彫り出す(自動記述/オートマティスム)」というアプローチは、当時のポロックの課題と完全に合致していたのです。
アトリエ17で何が起こったのか?
アトリエ17でポロックが制作した11点ほどの銅版画(エッチングやドライポイント)では、それまでの神話的・トーテム的な「描かれた図像」から、「板の上を自在に走り抜ける運動そのものの線」へと決定的な変化が見られます。
ヘイターから学んだ「回転するプレス機の力」「金属を切り刻む身体的動作」の感覚は、そのまま数年後の1947年、キャンバスを床に広げて身体全体で塗料を滴らせる「ポーリング/ドリップ・ペインティング」の誕生へと直結することになりました。
版画での線の格闘が、ポロックの代表的な抽象表現主義を爆発させる「完璧な触媒」となったのは、まさに美術史のダイナミズムですね!
本記事の英語原文(読解クイズ付き)は、note.comの連載『アート系英文読解』で公開しています。アートの知識と一緒に英語力を身につけたい方は、ぜひ[こちら]から挑戦してみてください!
【筆者プロフィール&作品】
このコラムは、現代アーティスト・川田祐子が執筆しています。 実際の銅版画作品は、こちらのギャラリーサイトからご覧いただけます。 👉 https://kawadayuko.jp/printmaking/

1件のフィードバック
この版画の制作年は1944-45とありますから、戦後直ぐに制作されたようです。ポロックは、1912年生まれで1956年に若くして、自動車事故で突然亡くなりました。そう言う目で見ると、また違った見え方がして来ます。32、33才のポロックが当時夢見ていた作家像はどういうものだったでしょうか?きっと当時活躍していた「ピカソへの憧れ」が、この作風から見えて来る人も多いと思います。